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 つい先まで鉛の様に重たかった身体が、一度瞼をを伏せただけで目を見張るほど軽くなったような気がしていた。炉で焚かれた焔ではない、燦々と降り注ぐ陽光の温もりが微かに、しかし全身を覆っている。浮かんでいるとも沈んでいるとも知れぬ奇妙な感覚に、凌統はまだ重たい眸を、ゆっくりと開いた。
 肥えた土壌にどっしりと根を張った、大きな樹の葉がさらさらと揺れ、影を作っていた。その葉の隙間に、強い光が見える。ほんの少し背を伸ばせば青空を一面に臨むことができたが、そこには曇りの一欠けらも見当たらない。風の音の他は、僅かばかり遠くで畑を耕している民の笑い声と鳥のさえずりが聞こえるばかりで、戦乱の悲鳴などは、其処には存在していなかった。
 それはかつて、本当にあった景色なのか。或いは、凌統が何処かで望んでいた光景だったのか。それすらも解らない。
 小さく欠伸をして、眠気を取り払うように起き上がった。が、さぞ当たり前のように身体が軽く動く。栗色の髪が、その反動で少し、肩に当たった。久しく、否二度と見ることのないと思っていた、しかし其処に有って最早当たり前のような感覚に、凌統は首を傾げた。如何して此処にいるのかも、思い出せなかった。
 「公績」
 不意に、懐かしい声が聞こえて意識を止めた。いつの間にか、木の葉の麓を、馬の蹄が踏みつけていた。駆け寄る音も気配も感じなかったのに、確かにその男は、護る様に凌統を見下ろしている。
 嗚呼、ここは夢なのかと、凌統は思った。
 「子明さん、」
 呼ばれて、呂蒙凌統にも判る否かの微笑を浮かべつつ、主の先を促すように啼く愛馬の首を撫ぜた。そびえる大木を見据え、良い日だな、と漏らした。
 「まぁ、お天道様のご機嫌が頗る宜しいみたいだし」
 「はは、そうだな。…良い日だ」
 何かを匂わすように再度呟いたその言葉の意味を、或いはそれを吐いた呂蒙の真意も、凌統には掴みきれなかった。子明さん、と声の出かけた刹那に、凌統の猫っ毛が、その大きな掌に掻き撫でられた。
 「ちょっ、…子明、さん」
 ごつごつと節ばった、大きな男の手だ。それはかつて、武人としての義務も責任も、重さも痛みすらも知らなかった少年の頃から、ずっと憧れてやまなかったそれに、良く、似ていた。
 「よく頑張ったな、公績」
 父の面影に重なる彼の声と姿は、それだけ言い残して、突如現れた旋風に乗って何処かへ消えていってしまった。




 「またここにいらっしゃったんですか、公績どの」
 次に聞こえたのは聡明な少年の声だった。草を掻き分ける音も立てずに凌統の背後に立って、呆れ帰った笑みを浮かべて。常ならば本能で近づく気配に経過違反のを示している筈の身体が悪寒さえ感じなかったのは、そこに居たのが彼だったからなのか、それとも、その彼の存在が希薄に思えてしまったからなのか。
 それでも、其処に立っていたのは紛れも泣く、陸伯言その人だった。それだけは、間違えようが無かった。
 「昔からここで執務を放り投げてお昼寝なんてしていらっしゃいましたよね」
 そんなに此処がお好きだったんですが、と陸遜はくすくす笑いながら凌統の左隣に腰を下ろす。かけられた問いに、凌統は一度周囲を、心地よい日陰を作ってくれる大樹や雲ひとつ無い澄み渡った晴天や、民家の群れや、木々から飛び渡る小鳥達やを、ぐるりと見渡して、分からないと頭を振った。
 本当はきっと、こんな風景なんかに見覚えなど無い。こんな記憶など、凌統は知らなかった。
 「忘れてしまったのですか。…そうですね、忘れてしまったのかも、しれませんね」
 「…忘れた、俺が。何を、」
 陸遜が、泣きそうな、しかし相変らず懐の読めぬ笑みは崩さずに、風に踊る木の葉を、或いはその先に輝く太陽を見上げて、僅かに目を細めた。その整えられた唇が、何かを言おうとしたのか一瞬吐息を吐き出したが、しかし彼はそれ以上何も言わずに、口を噤んでしまった。それが、答えなのかもしれなかった。
 怖い位の沈黙が、凌統を惑わせた。やがて、陸遜が震えるように瞼を閉じて、一言、
 「…おやすみなさい、公績どの」
 「は、」
 「…私は、この先には行けませんから。言葉が、どうしても見つからなくて」
 先の呂蒙と酷似した動作で、しかし彼とは全く違う細くて白い指が凌統を軽く撫でる。母親が、赤子の眠りを促すような仕草だった。柔らかいそれは、温かい陽だまりの中で相乗し、凌統に睡魔となって襲い掛かる。
 不思議と、それに抗おうとは思わなかった。眠りに沈んでしまえばきっと眼前の彼は居なくなってしまうのだろうと、呂蒙の様に疾風の如く消えていってしまうのだろう薄々感じてはいたのだが、如何してかそれを拒絶すると言う選択肢は、存在していなかった。
 とろりと溶けていく意識の中で、草の絨毯に寝かされながら、凌統は陸遜の掌を握る。
 「伯言、どの」
 「…はい、」
 「…あんたの手、冷たい、なぁ、」
 ぼやけながら闇に消えていく中で、陸遜が一瞬瞠目しながら、ありがとうございます、と唇が言っていたように凌統には見えたのだけれど、声まで聞くことは、最早、できないらしかった。




 目を覚ますと、やはり其処に、人影は見当たらなかった。草の上に寝ていたことに変わりは無かったのだけれど、陸遜はもう居ないし呂蒙が戻ってきた様子も無い。それだけがつい先刻の記憶とは違っていて、一昼夜のときが過ぎてしまったかのように、他の光景は何一つ変わっていなかった。草も、畑も、花も、空も、あの大樹も変わることなく、大地を護るように鎮座している。
 いよいよ此処は何処だろう、と両党は考えあぐねた。よく訪れた場所のような気もするのだが、こんな所に来た記憶も無かった。その上如何して凌統自身がこの場所に来たのかも、正味な話、よく覚えていなかった。戦帰りに立ち寄ったような気がするし、宴の酔いを晴らしに外へ出た気もするし、誰かに頼まれた退屈な執務を放棄して遠乗りに来た気もしていた。どれが正しいのか分からないし、そのどれもが虚であることも有り得た。
 こうなっては城や屋敷に帰るにも何処へ進めばいいのか判かりもしない。
 「…困ったねぇ、」
 「何だ、何か困ったことでもあったのかよ」
 「そりゃあ困るっつの。何せここが何処なのかすら解らないんじゃ…って、」
 頭上から降ってきた粗暴な声に、驚愕のあまり凌統は飛び上がった。その主が一歩退いた拍子に、腰に下げられてる大きな鈴が、それぞれ涼しげな音を立てて、凌統の鼓膜を振るわせる。それは忘れるまでも無い、聞き違える筈も無い、良くも悪くも凌統の一生を縛り続けてきた、呪いの音だった。
 「か…甘、寧」
 「おう」
 何で、と凌統は混乱のあまり口どもりながら甘寧を指差した。夢。呂蒙が現れたときもそう思ったが、夢ならば如何して、こんな穏やかな夢にこの男が出てくるのだろう。そんなことも、かつて存在していた過去の因縁を断ち切ってからも、その前からも、そんなことは無かった。
 この男が死んだ、その夜以外は。
 「何で、って言われてもなぁ。お前の面見に行こうと思ってただけだし」
 「は、」
 「あーあ、しっかし情けねぇなぁ。お前この樹の前だからって立てねぇのか。……ほらよ、」
 「う、わ、」
 あっと言う間、気付けば状況を飲み込む前に甘寧に背負われていて、凌統は錯乱した。意味が解らない。立てないのかと言われても、行き先の無い以上立つという選択肢自体が無かったのだ。立てる立てないの問題ではないし、その上腕を退けば良いものの如何して背負わなければならないのかね解らない。
 「やめろっつの、降ろせ。別に、歩けるって」
 「阿呆。今立てなかったら、歩けるわけねーって」
 「どういう理屈だよ、降ろせ…っ」
 「嫌だね」
 「この…っ、バ甘寧っ、」
 「はいはい」
 甘寧はそれ以上凌統に耳も貸そうとせず、くるりと踵を返して、樹から遠ざかるように歩き出した。その足取りは、凌統を背負っていることを考えても、ずっと重い。
 「やっと、大人しくなったか」
 「…ん、」
 何処まで進んだかは判らない。
 が、不思議と、甘寧が歩き始めてからはそれ以上抵抗しようという気が起きなかった。確かにこの男に背負わせるのは凌統にはかなり不本意であり、且つ、癪なのだが、急に、そう例えるなら恋の焔が冷めるように急激にそれが萎えていってしまうのである。何か、どうでも良くなったような怠惰感に襲われて、凌統はとうとう大人しく甘寧の背に身を預けた。
 久しぶりに人の体温に触れたような気がした。ほんの少し、くすぐったいように、思う。
 「おい、凌統、前見ろよ」
 「前、…あ、」
 ほんの少し先、何の導も無い、草原の真ん中に、呂蒙がいた。馬に跨って、戟を携えて、甘寧を待っているようだった。いつもの、先刻にも確かに会った、呂蒙に違いなかった。
 「遅かったな、公績、興覇」
 「…伯言が居たんだよ。大分てこずった」
 「そうか」
 「今も、居るけどな」
 甘寧と呂蒙の会話は全く理解できなかったが、確かに最後のそれだけは解って、凌統は後ろを振り返った。何里もありそうな遠い里程の先にそれでもはっきりとあの樹が見えて、その幹の前に、赤い影がある。
 陸遜。
 それを理解したとき、凌統の中で何かが音を立てて切れた。根拠もないのに、頭の中のあらゆる疑問が氷解していく。陸遜が、こちらを見ていた。ずっとずっと、あんな遠くから。きっと、その眸に精一杯の泪を溜めながら。
 此処は。あいつは。あの樹は。…俺は。
 凌統が、ふっと笑みをこぼした。自嘲の様なそれを浮かべて、甘寧の肩をニ三、叩く。
 「甘寧、」
 「おうよ」
 驚くほどあっさりと、甘寧は凌統を背負う手を緩めた。それには何の疑問も感じずに、遠くに佇んでいる、陸遜を見おろした。この路を下ろうとはもう、思わない。ただ一つ心残りだったのが、彼を、置いていくことだった。きっとかつて、呂蒙も甘寧も、この路を登るときに、そう思ったのだろう。だから、敢えて、凌統は届かないとわかっていても、彼に向かって、叫んだ。
 「じゃあな」
 それでも変わらず、陽の光は、降り注いでいた。













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